弥生集落像の原点を見直す・登呂遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」099) mobiダウンロード

弥生集落像の原点を見直す・登呂遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」099)

によって 岡村 渉


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弥生集落像の原点を見直す・登呂遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」099) mobiダウンロード - 内容紹介 近年、弥生時代の集落というと、吉野ヶ里遺跡のような大環濠と巨大建物の“クニ"がイメージされやすいが、住居と水田が一体となってみつかった登呂遺跡の重要性に変わりはない。二〇〇〇年前後に実施された再発掘をふまえ、弥生集落像をあらためて問い直す。 「弥生時代の集落イメージは、戦後間もない登呂遺跡の調査で導きだされた集落イメージから巨大環濠集落のイメージに移っていった。しかし、登呂ムラは、弥生時代後期の拠点集落の平均的姿をあらわしており、現在でも、弥生時代の集落イメージを代表しているのである。」 内容(「BOOK」データベースより) 近年、弥生時代の集落というと、吉野ヶ里遺跡のような大環濠と巨大建物の“クニ”がイメージされやすいが、住居と水田が一体となってみつかった登呂遺跡の重要性に変わりはない。二〇〇〇年前後に実施された再発掘をふまえ、弥生集落像をあらためて問い直す。 著者について 岡村 渉(おかむら・わたる) 1962年、静岡県藤枝市生まれ。 1985年、國學院大學文学部史学科卒業。 現在、静岡市役所文化財課。 主要著作 「駿河湾沿岸における弥生時代後期の集落景観」(『2005年度共同研究成果報告書』19大阪府文化財センター)、「弥生集落の様相・静清平野 登呂遺跡」(『弥生時代の考古学8 集落からよむ弥生社会』同成社)、「登呂遺跡水田跡の土層」(『静岡市立登呂博物館館報』1、静岡市立登呂博物館)、「静岡県登呂遺跡の再発掘調査」(『日本考古学』第13号、日本考古学協会)ほか。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 岡村/渉 1962年、静岡県藤枝市生まれ。1985年、國學院大學文学部史学科卒業。現在、静岡市役所文化財課(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

弥生集落像の原点を見直す・登呂遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」099)の詳細

本のタイトル : 弥生集落像の原点を見直す・登呂遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」099)
作者 : 岡村 渉
ISBN-10 : 4787713396
発売日 : 2014/12/19
カテゴリ : 本
ファイルサイズ : 27.21 (現在のサーバー速度は29.44 Mbpsです
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最近は吉野ヶ里遺跡などに主役を譲った感もあるが、登呂遺跡は弥生時代における代表的な遺跡として長く教科書に取り上げられ広く知られてきた。実際、戦時中に発掘が始まったこの遺跡は、終戦後に、それまでの神話中心の歴史から科学的な発掘調査に基づく歴史研究へ切り替わる出発点になった。また、食料にも事欠いた戦後の混乱期において、本当の歴史を知りたいという情熱を持った数多くの若者が空腹と戦いながら発掘現場に駆け付けて手伝い、その中からその後の日本の考古学研究を支える人材が育ったという。そんな登呂遺跡だが、実は1997〜2003年までに再発掘調査が行われている。また、周辺の関連する遺跡の発掘も進み、有東遺跡を中心とするこの地域に点在する複数の遺跡全体の関係性や、遠く離れた地域との物資のやりとり、西日本の遺跡との違いというようなこともかなり判明してきた。本書は、そのような登呂遺跡をめぐる最新の発掘及び研究成果を、実際に再発掘にかかわった研究者が学術的な立場から紹介したものである。まず、集落の変遷はそれまでの説より複雑なことがわかった。地層調査から居住地域で3つの時期、水田域で4つの時期があり、I期とII期では土器の形式も少し異なっている。また、それまで見つかっていた高床式倉庫より1.5倍大きく、祭祀遺物が出土した祭殿と考えられる建物があったことが判明した。水田域は大区画だけでなくその中に小区画が存在していた。集落周辺の水は淡水で、従来一部でいわれていたような海水の影響は受けていない。栽培されていたコメは温帯ジャポニカ種だけでなく、熱帯ジャポニカも含まれており、両者が雑種化していた。遺伝子分析では、より原始的な赤米は見つかっていない。水田稲作の技術は既にかなり確立しており、水田跡だけで時代を当てるのは困難なくらいであるという。住居数と水田域との比較から1軒あたり5反以上の水田を作っていたことが考えられる。当時の稲作状況を考えても3反あれば食べていけるので、翌年の種もみ用や予備用を取っておくとしても、残りを間違いなくあったと考えられる鉄製品などの入手のための原資にしていた可能性がある。また、稲作だけでなく、漁業、狩猟の道具が多く見つかっている。木材はスギを多用し、性質・形状・大きさを考慮して材のすべてを利用しつくしている。機織りは北方系の「いざり機」によるものではなく南方系の「輪状式機織り」であったと想定される。タイプの違う琴が3種類見つかっているし、壺の70%はベンガラによって赤く塗られていた。静岡・清水平野には有東遺跡を中心とした遺跡群があり、登呂遺跡も実はその中のひとつである。特に、有東ムラは登呂ムラの母村と考えられ、有東ムラが廃れると登呂ムラが成立し、登呂ムラが廃れると有東ムラの住居域が増えるという関係がある。そこには、特に弥生時代後期中葉以降繰り返された洪水が影響を与えている。このような有東遺跡と関係の深い遺跡には他にも鷹ノ道遺跡、豊田遺跡、汐入遺跡、小黒遺跡がある。このような登呂遺跡を含む有東遺跡群には、環濠が存在していないし、武器らしいものもほとんど見つかっていない。政治・宗教・経済のセンターとして見た場合、十分な機能をもっていたが、特定の首長が大きな優位性を持っていたとは言い難い。近年、西日本を中心として大規模な環濠集落がみつかっていることや魏志倭人伝の記述などから、「弥生時代=戦乱」という理解が進んでいるが、それは少なくともこの地域には当てはまらない。つまり、われわれの弥生時代のイメージは、戦後の登呂遺跡の発掘成果を出発点として、吉野ヶ里遺跡のような巨大環濠集落や倭国大乱まで大きく振れてきたが、当時の日本列島の状況はそのどちらかという単純なものではなく、地域によってかなり違っていたとみるのがどうやら正しそうである。そのようなことを理解できたという点で、なかなか有意義な本だった。

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